昨日の晩に、プーケットでお通夜がありました。
なくなった方は、私が全職場でマネージャーをしていた時の社長だった宮下和司さん
年齢は私よりも一回り上だったので、69歳だったと思います。

和さんとスタッフからも呼ばれていて、ちょっと丸顔で笑顔がとても印象的でした。
現存する プーケット のダイビングショップ(欧米系も含めて)の草分け的存在で、 プーケット の日系 ダイビング ショップは元をたどっていくとすべて宮下につながると言っても過言ではない人でした。
プーケット の ダイビング が全盛期だった時には、スタッフは10数名、店舗はもちろん、デイトリップ船と大きなクルーズ船も自社保有していました。
日本の大手旅行代理店のA&A、JTB、HIS、ワールドツアープランナーなどとも積極的に手を組んで、 プーケット の ダイビング 業界をけん引して存在でした。
当時スクーバエクスプローラー号と言う名前で運行していたクルーズ船は、10月~5月まではシミランクルーズを催行し、シミランクルーズが終了すると、クルーズ船をタイの東側のサムイタオへ回して、タイのインド洋側と太平洋側の両サイドでクルーズを行っていました。
プーケット から南下してシンガポールのマラッカ海峡を抜け、北上してサムイタオまでは一週間かかります。
当時海賊が出るかもしれないからと言って、社長だった宮下は一週間船に乗って行ったこともありました。
危険だと話すと「海賊に襲われれば、ニュースに出てクルーズ船の宣伝になる」なんて冗談で話していたのを思い出します。
シミランクルーズばかりでなく、南アンダマン海のコハー・ヒンデンヒンムアンクルーズや、マレーシアとの国境近くインド洋側のリぺクルーズ、太平洋側のローシンクルーズなど新しい企画をしたのも、大型自社クルーズ船を持つ宮下の才覚だったと思います。
プーケット は2004年12月26日にスマトラ島沖地震の津波の影響で、大打撃を受けた経験があります。
当時は毎日のように、 プーケット のパトンビーチに押し寄せる津波と、その津波で被災した現地の様子をテレビで放映していました。
その時にプーケットの日本人会会長を務めていたのが宮下で、 プーケット の復興を願い出るために当時の小泉首相と対談も行いました。
写真がその時の様子です。(プーケット日本人会ホームページより)
その年の春からタイに渡ることを決めていた私も、宮下が小泉首相と向かい合ってるテレビの映像を食い入るように見たのを覚えています。

またオフィスでは、30年ほど前にバックパッカーで プーケット を訪れた頃の話を何度も聞くことがありました。
当時はカタビーチにイルカが跳ねていたそうです。
ビーチにはウミガメが産卵に訪れ、その卵を食べたなんて話も聞きました。
道路は当然砂利道で、ビーチには水牛が歩いていたそうです。
そのころの プーケット は欧米人の隠れ家的存在で、「アンダマン海の真珠」と呼ばれていました。
カタビーチはヨーロッパ人が日光浴を楽しみ、当時はヌーディストビーチだったそうです。
誰もがみんな丸裸で、自分がパンツをはいて歩いていると、逆に恥ずかしかったなんていうエピソードも聞いたことがあります。
ゴルフが好きで、腕前はなかなかだったそうです。
ただ病院に行きたがらず、行くと病気なのがわかってしまうと話していたことを覚えています。
奥さんから聞いた話では、最期は胃がんだったそうです。
胃がんは生存率が高いがんですから、早期に発見できていたら、もっと長生きできたのかもしれません。
最後に娘さんと映っていた時の写真を奥さんに見せてもらいましたが、もうやせ細って、昔の人懐こい丸顔の印象はなくなっていました。
私は宮下のもとで7年ほどマネージャーを務めていましたし、年齢もスタッフの中では1番上だったので、他のスタッフよりもたくさん話を聞けた方だと思います。
というより ショップ には1ヶ月に1度くらいしか顔を出さなかったので、他のスタッフはこんな昔話を宮下から直接聞く機会もなかったと思います。
3人いる子供たちも、長男は日本の空港関係でタイ語と日本語を使った仕事をしていて、次男はドイツでプロのクラシックギタリストとして大学で先生をしているそうです。長女は歯医者をしていて、みな立派に育っています。
宮下本人も数年前からは、現場を離れて無農薬野菜の栽培を始めたと聞いていました。
今日もお通夜があり、明日の昼にはワットチャロンで最後のお別れになります。
私も参加します。
ダイビング を通じて、 プーケット と日本の懸け橋になるために働いてきた人生だったと思います。
ご冥福をお祈りします。